昭和39年12月02日 朝の御理解



 久留米から岡崎さんという方が参って来る、皆さんも御承知ですね。【    】方なんです。パーマ屋さんの材料を卸して歩く商売なんですね。ですからあの関さんのお道引きで御神縁を頂いた方です。熱心にお参りして来てようおかげ頂きました。ところがあご承知のように、関さんがあの子供さんの病気のために大変難儀をされました。信心したっちゃ、あげな病気をするごたるなら、というふうに感じられたのではないでしょうかね。あの頃から、ピタット信心を止めてしまわれた。
 ところが皆さんがまたご承知のように、それこそ神様の働きと言わにゃおられない程のおかげを、関さんが今度頂きだされた。何かにの上に、娘さんの病気の上にも、お店の上にもだから家庭人間関係の上にも。長年別れておられた息子さん達の家族まで、今度一緒に帰って来られて、と言った様なおかげになって来たわけなんです。ほやっぱ神様ちゃね大した神様じゃある。この神様という事が分かった。
 だいたいが根が取ってもいい人なんですからね、そういう風に思われるのも、もはや言い訳なんですね。それが最近御参りになっているんです毎朝。昨日、ここにお届けに見えてからです、「先生ほんとにもう、何か月間ちゅうてご無礼しましたが、もうその間にもう兎に角、もう一週間に一遍づつ位は親先生のお夢を頂いた」ち。「ところが先生、最近なお参りするごとなったらピタット、そのお夢ば頂かんごとなった、先生どう言う様なもんでしょうか」ち、言ってからその。
 どういう風うに思われます。神様の思いというか願いと言うか、何かその中に現れて いるような気が致しましょうが。ね、無信心であった時にはです、神様がもうつけ突くようにして、神様がこうしておまえが無信心になってお参りしとらんが、こんなにしてお守りを頂いておるのぞ、と言わんばかりにお夢を下さった。いわゆる神様が心配してそういう働きを見せて下さっとると。
 ところが、そこんところを分からして頂いてから、お参りりさせて頂くようになったらもう、神様が安心なさったんでしょうね。だからお夢頂かんのです。けれども「おかげの方にまだ【            】おかげが表われて来ちょろうもん」ち、言うたら、「そりゃ先生、そうでございます」ち言うてから、昨日言うておられます。そんなかから、ほんとにお互いおかげ頂かなければならんなぁと思いますですね。
 いくらどんなに口で申しましてもです、やはりおかげを受けなければ、そうなんですから、ね。おかげを受けますと、いわば信心の無い者でもやはり、目を見張るわけなのです。ついて来なければおれなくなるのです。と、同じに私はそのなかから皆さん分かって頂きたいと思うことはです、ね、神様がいかにこの神様の働きを氏子に実感させようとしておられるかという事です。を、強い働きがあるかということです。
 私共が、神様を身近にです感じさせて頂かなければ、有難いという心は湧いて参りません。私は昨日、久し振りで親教会でお話をさせて頂いた。その中で申しました。信心とは「実感だ」と私申しました。どんなに有難そうにですね、しておってもその実感が無かったら、又どんなに頭で分かっておりましてもダメです。ある方が話されました、「痛い、痒いのが治ったのが有難いのではない。
 いつもまめなのが有難いのだ」と。さぁそれが分かった所でです、それどころではないのだけれども実感としてです、ね、例えば目が覚めたという事は、お生かしのおかげ頂いておる証拠である事は、話を聞けばすぐ分かるのだけれども、実感として「あぁ眠たい、眠たい」というものだけしかない。そういう大したおかげ頂いておる事は、頭で分かってもです「今日も、お生かしのおかげ頂いとるなぁ有難いなぁ」と言う。
 その実感が湧いてこなかったら、私は神様に通わんと思う。そういうような事を話たんですけど。実感なんです。神様を身近に感ずるということは、ね、実感なんだ。だから、その実感をもってしなければ、神様はおかげ下さる事がでけんから、私共がそれを実感しなければおられないような働きがあるという事です。ね、それが例えばなら神様がそういうお働きを下さっても、こちらが気が付かんようになり、もうそれを一つも感じんようになりますと、そういう働きもだんだん無くなって来るですね。
 昨日私の、善導寺参拝しておる留守中に、善導寺の、久保山酒屋のお奥さんが久し振りで 参って来ておられる。《朝凪》が二本、御供えがあっとりますね。朝凪ていう酒屋の奥さんです。そして、その久保山先生が、そのおっしゃったと。「久保山さん、あなたが最近、椛目にご無礼しとられますから、椛目では朝凪が一本もお供えありますまいがち。もう不思議です。
 ああたが参って来なさらんごとなったら、ピシャット朝凪がこんごとなりましたばい」ち。ほんとにあのしげしげと参っておられる頃にはですね、椛目に参りよんなさるけん、あの人方から、買おうと言う訳でもありますのに、にも拘らず朝凪が多かったですね。だから私久保山先生にその事を申しました。「そげな事言うたっちゃ、あなた向こうが実感しなさらんそれが分からなさらんとに言うたっちゃ、なんになる。
 却ってあのもうあそこは参ってこんけん、あそこから買うなち私が言いよるごとあるふうにしか聞こえんですよ。それが実感で蹴る様になったら、ある意味でしめたもんですね、神様の働きがですならお月次祭毎のお酒の御供えをさせて頂いておる。すと何本かやはり朝凪が並んでおると、その何本か売れるという意味じゃないですもんね。その何本か売れるその印を見せなさる位に、そのおかげというものは大変な事です。ね、
 そこが実感でける様になったら、とても御無礼なんかでけやしません。けんそれはああたが言いなさったっちゃ実感として相手に伝わらんですよ」と言うて、まあ話した事ですけど。私共はそれがピンと来る。皆さんもピンとこられるですわけですね。今申しましたこと。私朝晩の朝刊 夕刊の新聞の、必ず見出しに私の信心とか、心の状況状態というものを、いつも感じる事がでけるのです。
 昨日なんかもそうでした。も朝刊にも夕刊にも、はっきりと出てるんです。だから、なら、私、久保山先生やら古賀先生方に、ちょっとね、こげん間違いないじゃないのと言うてもです。ほんとですなあ、と言われないですね。そりゃ実感の問題なのですから。ね、だから、ああ、私が頂いて、私が神様の働き、天地が自由になるとおっしゃるが、いうなら、西日本新聞社を使うてから。
 毎日毎日、私の為に神様が働いておって下さるんだと言う、私は実感を持っていつも神様を身近に有難いなあと感じておるけども、まあ、なら久保山先生、古賀先生に言うても、その実感はこうちごた風なように頂いてないのじゃないだろうかとこう思うです。
 問題は、その実感程度なんです。おかげは、そいけん実感しなさいと言うて、実感でけ 実感がでけるというものではありません。ね、夕べも、そんな話が出ました。お月次祭たんびに、昨日なんか、二十本からお酒が出とりました。あれがです、ね、例えば、ならあれは月桂冠なら月桂冠というお酒がです、五本御供えあっとりますね。もう買うなら、月桂冠が好いとんなさるけん月桂冠ち、もうお供えしよんなさるとじゃないですもんね。
 こちらから来るとも月桂冠なら、こちらから来るとも月桂冠なんです。富の寿が二本上がっとるが、あれも一言出したんじゃないです。こちらから来るのも富の寿だったら、こちらから来るのも富の寿だったわけなんです。白鹿が、二本お供えになっとりました。あれもこっちから一本、あっちから一本なのですよ。
 そういうなかに、私ども、私自身、実感させて頂く事はです、どうぞ、皆さんも実感しなされなきゃいけない事はです。ね、それだからと言って、別にどうって事ないのですけれど、ただ、神様の働きを、私共、実感する。神様の働きを実感するから、その実感に対しておかげが頂けるのです。
 『真に有り難しと思う心、すぐ、みかげのはじめ」と、真にありがたいなあ、神様っ ちゃ間違いないなあと実感するから、間違いがない働きが頂けるのです。椛目では、私はその事を、椛目に御神縁を頂かれる方々は神の姿を目(ま)の当たりに見る事がでける。神の働きを、いわゆる、神の声を目の当たりに聞く事がでける。だから、神様ちゃ有難いもんだなあ、という実感がどこの誰よりも強い。強いから、椛目はどこの誰達よりもおかげ頂いておるという事が、言えるのじゃないでしょうかね
 神様は、私共にいわゆる自分、神様ご自体がです、その働きをです、私共に実感させようとなさる働きがあります。ですから、それを私共の信心心でキャッチして行かな、それを掴んで行かなければ。ね、そこんところが気がつかんでおりますとですたい、うかつにしておりますと、その神様の働きを働きとここに感じる事が出来ませんから、おかげにならん。
 いうなら、あのオイサミなんかそうですよ。ね、一心におすがりさせて頂いておる。カチッ、と、例えば、親先生、オイサミがついとんなさいませ。神様が、ご返事して下さったと。神様が、そうだそうだと言っておって下さる。不安があっても、心配があっても神様がお受け下さったと、こう思うたら安心でけるでしょ。その安心がでける心が、もう次のおかげの元になって行くわけなんです。
 オイサミなんかでも、いうなら神様のお働きを実感させて下さる為なんです。そういう働きがあってもです、ね、それを、それと実感しきらなかったらおかげにゃなりません。
 波田野さんがいつも言うておられます。あの、俳句をなさいますからね。俳句のお書物を、私も 頂いておるけども、一冊、いつもこうやってもっておられます。ほいでその時折、そっとこう神ながらに開いて見られる。もう、不思議な位に、自分の心境がそこに出てくる、と言わけなんですね。神様を、身近に感じないわけにはまいりません。
 どんなに有難そうに般若心経やら、大祓いを上げても心に真が無かったら、という事は 、心に実感がなかったらという事だと思います。神に嘘を言うのも同じ事じゃと、こうおっしゃる。
私共が実感を持って詫び、実感を持ってお礼申し上げる、実感を持ってすがらせて頂く 、という信心。ね、それは、神様、いわゆる真実信。神様へ嘘を言うようなものじゃ、とこうおっしゃるという事。ね、実感の無いものは、私は神様には通ってはいないと。
 それを信心の、いわば、行き届いた人、出けた人なればなるほどです。いつも、たえず 神の声を聞いたり、神の姿を様々な中から見たり、聞いたりしておる。神の中に、神の働きの中にあるのは、神の御守護をこんなにしてうけておるな、という事を実感するから、いつもが有難いのです。だから、いつも有難いおかげを頂いておるという事になる訳でしょうが。
おかげ頂きました。